昭和41年06月04日朝の御理解
昨日私はあの、正義さんの久富建設の車で、久留米にちょっと用があってまいりました。久留米にまいります途中にです、そこの正義さんが私を横にして色々話すんです。親先生もうこの神様ばっかりはもう心次第でおかげの頂けれる神様ですねという、その通りである。もう本当それ以外にゃないよ、と言うてから。まああの人のあんな事は珍しかった。中々無口な人ですけれど。
昨日はもうそれをづっとその、まぁ自動車の、家に昨日新車が参りましたから。新車というから、私がつい、その前日も私用があってから、あの一番最後のですから、車に乗せて貰えると、参りましたから、その参りました車に、もうその期せずしてそう言う事に成った訳すけれども。その心一つで、と言う事に付いて話しを色々するんですよ。今、あっちは何ですかね、あのぉ九重のあちらの方へ道路を作ってるんです。
ですから、あちらへ何時も行きますから、夜もよなかも無い様にしてから、あちらへ毎日いかんならんもんですから。ある時、あのうよなかに帰って来よりましたと。そしたら、何とかというあのその機械が、その機械が、どうかくずれると、自動車が動かなくなるという、いわゆる機械なんですよね。それがその、まぁくずれてから、その動かなくなったちゅう事だった。
それであの、間違うとったばいなぁと、何処で間違うとったじゃろうかと思いながら、神様にお侘びさせて頂きながら、自動車修繕の所の店を訪ねたけれども無いち言う。それで、夜中の事ではありますし、その起こした所に、困ってる事を言うたら、そんなら家の何とかという車のそれで合やぁせんでしょうかね、と言うてから、自分の所の車の機械を取ってからそのはめてくれた。で、動き出した。
まぁ神様がなぁ、本当にこちらの心次第と言うが、その、天地の心と私共の心というのが、こう一つにこの必要な物が必要に応じて、必要な物が丁度そこにある事になっとるんだと、大体は。天地の摂理というのは、そんなに素晴らしいものなんだ。必要な物がどこの夜、夜中であろうが、山の中であろうがです。そこに普通の部品店に行っても、その機械が無い所もあると言った様な、その難しい機械がです。その一軒、その夜中に訪ねた家の人がそうやってして。くれたち言うんですからね。
一っぺんはやっぱり九重るのに夜中にパンクした。それがおかげを頂いてから、丁度そのパンクの修繕をする所のほんの側でやったという。それですぐ行った所がその主人とその修繕をするパンクの修繕をする若い人とが、二人洋服を着てから自動車に乗ろうとする所だった。どこか出かけにゃならち言うて。だから折角ばってん今日は急な用事で行きよるけん出来ませんよとち言う。まぁ困ったこつじゃあるまぁそれこそ( ? )たなぁと思うてしよりましたら、そこの若い人の嫁さんらしい人が。
あなた自分でその修繕が出来なさるならば、自分でしなさらんか道具はここにありますけんち言わしゃった。所が自分は見た事はあるばってん、した事がないち言う訳です。時間はちょっと掛かったけれども、おかげで帰る事が出来た。そんときゃ丁度先生大祭の前の日で御座いました。そん時私が思うた事が神様が大祭前に修行させて下さるなぁとこう思うたと。もうそれが次のおかげをぽっとこうキャッチしておりますね。
そう云う様な話しを久留米に着くまで色々させて頂いておったが。例えば自動車なんかに、こぉ非常に皆さんがご承知の様に慎重な方です。ですからその本当思いよる時には、もう必ず自分の心の中に、良くない事を思うたりしておりますとこう言う、もう心次第だと。それ所じゃないこの神様は心次第。おかげの有るも無きも和賀心なのだとね。ここんところを一つのまあ根本としてです、私が言う成り行きを大事にと。
しかもその成り行きを大事にというても、その成り行きを只、神ながら的なものではなくてですね、旺盛な修行精神と共にです。神ながらに成り行きを大事にして行く、その事が神様の御心をお粗末にしない事であり。神様の働きを大事にする事であり、同時に絶え間ざる修行精神というものをです。自分の心の中にかき立てかき立てさして頂いて行くと言う所に、信心修行信心は山登りと同じというそこが感じられる。
同時に私共人間生身を持っておるんで御座いますから、何時、何処で、どう言う様な事があるやら分かりません。何を必要とする時があるかも知れんけれども、その必要なものが必要に応じてです、それこそ山の中であろうがです、必要な物が必要に応じて頂けれる様に実はなっているんだと。おかげは世界中の氏子にやってあるんだと。けどそれをキャッチする、それを頂く心が無いのだ、受け物が無いだけの事。私共は間違いの無い様に、間違いの無い様にと。
今日もどうぞ一日お心に添い奉る一日であります様にと祈らせて頂きながらも、矢張り自分の心の中に、心を汚したり、間違ったした様な事を思うたり、考えたり、行のうたりしておる様な事があるんだと。けれどもほっと、こぉ必要な時にはっと。例えばその自動車を運転していきながらです。自動車を運転をして行きながら、はっと思う時には、もう必ずそうだとこう言う。
自分の心が和賀心で一杯で、いわゆる和らぎ喜ぶ心でです一杯である時に、おかげを頂かせて貰う。昨日の朝その新車を持ってすぐお届けに出て参りました。もう思いがけなく、まあ安くして頂いたという訳なんです。それで私は新あの車を購入致しますと、御神米を下げて私は必ず一辺その車に私はまあ乗ってみるんです。その中でご祈念をさせて頂いて、それを普通でいうなら、こうやって御払いをなさる訳ですね。
不浄けがれが無い様に、ち。私は、あの中へ乗って、まぁ自分は分からんけれどもハンドルを握って見て、そしてどうぞご用につこうて頂き、やらしない様にという祈りを捧げる訳で御座いますけれども、私が乗ったとたんにですね、良くない車と頂いた。良く無い一番と。ほう良くないと言う事は悪いと言う事ですよね。次には、それを自動車の番号がそう言う番号なんです。四、九、レイですから、レイは無いですよね。490-1という車なんですね。次に死苦無い一番と。
例えば死ぬると言う事やら、苦しいと言う事やらは、この車には無い、一番という事になる。神様のね、もう自然の微妙な働きというものは、もうどうも仕方が無いです神ながらにですね。神ながらに下さるもの、その下さるその物の中に、御神意がある。神の声があるのです、神の姿があるのです。それで、私心の中で御祈念をさせて頂いて、ちょっと私も引っかかったんですよね。良くない車と頂くもんですから。そしたら、神様がね「我情意欲を離れて、真の大道を開き見よというあの御理解を頂いた。
それで私はここで正義さんあの車はちょいと難しい車ばいと私が言うた。自分の心次第ではいよいよあれは良くない車ぞと私は言うた。けれども本当に例えば我情意欲を放して、欲の無いと言う事にしたらば、言わばしくない一番と言う様なおかげになるだろうと私が申しました。もう本当にいわゆる事故なんかも無い事じゃあ。この車が第1番と言う様な車になるだろう。皆さん欲というものはそんなに一切を祓う物なんです。
欲というものは又、そういう言わば災難やら難儀やらと言った様な物を招くと言う事にもなるのです、和賀心でしょう。欲を捨てる、欲を捨てると言う事は、我情意欲を捨てる。ここのところに焦点をおいておかげを頂かなければならんと言った様な、まぁ御理解をその車を通して頂いておったからかも知れませんが。昨日はその、また2度目に私を迎えに来てくれた時に、その車で、久留米に参ります道すがらにそんな話しを私に、まあ神様が聞かせて下さるのでしょう。
たしかにこの神様ばかりは、心一つでもう右にも左にもなる神様。欲無いにもならなければ、いわば死苦無いにもなる。悪い車が良く無いね、欲を捨ててからの思いにこちらが成らせて頂く時にです、その車には不浄汚れも無いいわゆる、この死とか苦とかと言った様な物を払うところのね、それこそ死苦無い第一番の車になるということをなのですから。これは車だけのことであはありません。自分の一身上に置いても同んなし事。自分の上に置いても同じこと。
一切の事柄の中に成程、この神様はこの心一つでおかげを頂いて行く、しかもそのおかげというのは、ここに遍満しておるんだと。実は氏子一人ひとりの為にです、もう本当に幸せになれれる道をちゃんと、明示しておって下さるんだと神様は。それを道を知らんから、道を行じない。そういう道理のある事を知らないから、道理に反した道を歩く。そして、自分から不幸せになって行く。自分から困った結果を招いて行く。信心はもうここに極まったと言うても良いのです。
自分の心の状態をです、本当に本気で見極める。成程、こげな心の状態でですね、おかげが頂ける筈がないというものを先ず自分で知らにゃいけん。そして、それを改まる事に精進する事が信心の精進。言うなら、それだけで良いというのではない。私が言う、成り行きを尊ばせて貰う、成り行きを大事にさせて貰うと言う事、その事が神様を尊ばせて頂くのであり、神様を大事にする事なのだ。
もう成り行きを大事にして行きさえすりゃあそれで良いか。自分なもうてれっとしておって良いか。そうじゃあ無い。たゆまざるところの人間生身を持っておるから、どこにお粗末、ご無礼があるやら分からん。私共がある意味において精進をしている時、私共の心は、やや間違いのない心である事を私どもは何時も体験する。いわゆるもう、修行精神なんだね。そこのところが私三拍子揃うて行く時にです、なるほど我が身は神徳の中に生かされておるんだなぁと。
それこそ山の中ででも必要な物が必要に応じて頂けれる様な、私はおかげを頂けれるんだと言う事をこれは、私自身何時もそれを体験する事ですけれども。皆さんも正義さんの言うたその一言というものがです、先生この神様はもう心次第ですなと。そうなんだとそこで本気でそれを体験させて貰う時にです、もう自分の心をこれ以上汚しは出来ない。精進する事によってね、それをより磨いて行くこれ以上汚しは出来ないね。
ところが、ややもすると私共の心が何時も緩んだり。汚れたりするのです。それは、私共の身体の上にです、そう汚れちゃあおらんごたるけれども、お風呂に入るたんびに、やっぱり垢が出る様なもの。日々そこのところの精進をなされて初めて、やや、神様が完璧なものを求められるのではない。けれども、私共は完璧を目指して、その目指す心の中にです、おかげを受けるのです。
こうなってしまわなければ、おかげが受けられんというのじゃあない。はあ信心ちゃそんなもんかなぁ。この神は病気治しや災難よけの神じゃあない。心直しの神じゃと仰る、もうそこなんだ、ね。そこには成程、災難もよけられ、病気も癒えるだろう。心直しの神なのだと。もう心次第の神様だと言う事をです、まずこれに本気で思い込み、分かり込ませて頂かにゃあいけん、そして精進をなさらなきゃあいけん。
そしてこれは私の言うならば流儀の様なもの。一切、ね、成り行きそのものを大事にして行くと言う事が、神様を大事にしていく行く事ぞと言う事をです、体得され、おかげを頂かれたらいいですね。昨日、正義さんの車に乗らせて頂いて、正義さんが私に話してくれた事。また私がその新車の事に付いてお取り次ぎさせて頂いてから頂いた事。その中から、成程私が申しました、正義さんが言っております、心次第と言う事もそれを感じれる事が出来るでしょう。
どうぞ。